jinenzazenのblog

長井自然老師の坐禅会情報及び講話を載せています。日本語と英語(Japanese & English ) 師弟法話集のダウンロード可能です。

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二〇一八年一〇月

即心記 龍澤寺所蔵法語 道歌集を現代語で電子書籍化しました。原典は公田 連太郎「至道無難禅師集」春秋社です。

きっかけは自然老師が法話で言われた、「本来は教えも出来ず習われず 知らねば知らず知れば知られず」と言う歌を覚えていたことから、無難禅師をしりました。

考え、分別でないことを終始示されている無難禅師は、「知らずにやってるでしょ」といわれる自然老師の世界と同じだと感じました。

読んでいると「知らない」世界が展開される様で、電車の中などで読むのに良い書ではないでしょうか。

多くの方に読んで頂けるように願って、お届けいたします。  (書き起こし・編集担当 S.Tatsuta)

即心記 龍澤寺所蔵法語 道歌集を現代語で電子書籍化しました。

きっかけは自然老師が法話で言われた、「本来は教えも出来ず習われず 知らねば知らず知れば知られず」と言う歌を覚えていた事です.

考え、分別でないことを終始示されている無難禅師は、「知らずにやってるでしょ」といわれる自然老師の世界と同じだと感じて、このブログにのせました。

公田 連太郎「至道無難禅師集」春秋社 が元です。


epubソフトがあると読めます。

ダウンロードはこちら 至道無難禅師道歌集


宗師家の示衆法話、或いは普説偈、臨機応変也。至道無難禅師、平日参学の人に示すに、上乗の玄旨を諺に和け歌に述べて、愚味の衆生を応接す。即心自性二記に委ねし。今、茲信者あり。抄写し小冊となし、帰依の人々参学の便にせばやと、師の道場禅河山の宝庫に収蔵せし草稿一巻を乞求めて、聊かも取捨増減せず、梓に鏤む(ちりばむ)とす。幸いに上木の費を助ける人あり。至道庵主終に剞劂氏に授けて世に広す。それ人は色身の執着を根本とし、心病発し、朝に夕に嘆き、心中穏ならず、難治の煩を苦しむもの多し。嗚呼、禅師の高徳仰ぐべし。其の言葉俚諺なりといえども、僅かに三十一文字をもて意識の執着を除き、心病の悩を癒す良薬なり。只々一首の歌たりとも、信心をもて観する人あらば、其の功自然に現われて、正心堅固の体を得ん。ひたすらに心服すべし。
于時 天保十五年甲九月        如是観在茲書

無難禅師道歌集

大道を問う人に
思わねば 思わぬ物も なかりけり 思えば思う 物となりぬる

智慧才覚をこのむ人に
才覚と 智慧にて渡る 世なりせば 盗人は世の 長者なるべ

大道の根本を
言うことも 為すこともなき 心こそ 一切経の 極意なりけれ

儒者に
天命も 性も無ければ おのづから 道に至らぬ 事は無きなり

一休のしらこうべをひく絵の上に
ひくものも ひかるるものも しらこうべ しばし浮世の 皮をかぶれり

道を問う
主ありて 見聞覚知 する人は 生き畜生と 是を言うなり
同じく
主無くて 見聞覚知 する人を 生き佛とは 是を云うなり

身心無き時佛也
さかさまに よこす誓いに 問う時は 我が物ならぬ 我が物もなし

神よ仏よと問いし人に
名に迷う 浮世の中の おおたわけ 我が名も知らぬ 物となれかし

神道を問う
潔き 身をも心をも 捨てぬべし 本来空を 神と云うなり

修行に力尽きし人に
身の破れ 果てたる時の 心こそ 直に萬法 一如なりけれ

修行に赴く人に
身の咎を おのが心に 知られては 罪の報いを 如何でか逃れん

悟りは成らぬと云えるに
悟らねば 佛の縁は 切るるなり 一切経を 読みつくすとも

祈念して命延ぶと問いし人に
色々に 浮世の品は 変われども 死ぬるひとつは 変わらざりけり

念仏行者に
唱えねば 佛も我も なかりけり それこそそれよ 南無阿弥陀仏

道を問う
鶯の 子は紛い無き ほととぎす 何とて声の 別に聞くらん

大法聞き得て行わぬ人に
説く法に 心の花は 開けども その実となれる 人は稀なり

ある人に
たちまちに 死に果てて 見る心こそ 仮に佛とは 名は付けにけれ

坐禅
生きながら 畜生となる 印には 坐禅の床に 居られざりけり

同じく
生きながら 佛となれる印には 坐禅の床に 居らぬなりけり

同じく
せぬ時の 坐禅を人の 知るならば 何か佛の道 へだつらん

常に慈悲する人の家富子孫さかふるなり
佛とは 只かりそめの 名なりけり 慈悲は佛の かたちなりけり

儒者に
主に忠 親には孝を 為すものと しらですること 誠なりけれ

佛を問う
如何にせん 我さえ知らぬ 物なれば 人に教えん 言の葉もなし

無題
身の咎は 其の品々に 変われども 色と欲とを 根本と知れ

悟りの道を読めと云いし人に
教えにも 習いにも無き 物なるに 誰か真より 知りそめにけん

無一物にて馬によくのると云人に
法の道は 畜生までも うつる也 何とて人は よそに見るらん

仁の道とて 色々語る人に
一物も 無き所より 見る時は 主にはおそれ 親は尊し

身を捨る事を知らざる人に
心には 確かに入りし 法の道を 幾たび汚す 我が身なるらん

道人と云えども世の常の人に変わらぬと云える人に
色好む 女なりとも 法の師に 向かえば消ゆる 時を知るべし

或る人に
地獄餓鬼 畜生修羅は 世の中の 凡夫の常の すみかなりけり

罪を苦しむ人に
思うまま 此の身に罪を 作らせて 地獄の中へ 突き落とすべし

本来の所確かに知らせんために
おのづから 只何も無き 所には 只そのままを それとしるべし

道を聞きて物を苦しむ人に
物事に まかせぬる身は やすきなり 我にまかする 時ぞくるしむ

悟りを知らで山に入らんと云う人に
悟りをも ひらかで山に 入る人は 獣となる 印なりけり

後は人の師ともなるべき人に
修行者は 男女の中を 退けよ 火には剣も 鈍るものなり

衣を着る人己が咎を知るべし
身の咎の 其のしなじなは 消ゆれども 色を好むは 消えぬものなり

知らで法を説くに
己が身の 咎をも知らで 説く法を 聞き得る人も 同じ畜生

初めて法に赴く人に
身の咎を 己が心の 知る時は 佛とならん しるべなりけり

後は人の師とならん法師の咎を読めり
無一物と なりぬる時は 何事も 咎にならぬと 見るぞ苦しき

大法を聞く事ならぬ人に
あきらけき 佛の道に 入り得ずは 只怠らで 願え後の世

心の鬼を問う
世の中の 人は知らねど 罪あらば 我が身をせむる 我が心かな

大道よく知りて人の師となれと思いて
本来の ものとなりぬる しるしには 犯す事なき 身の咎としれ

大道に至りぬる事を
すこしなりと 身に善し悪しの あるものは 本来のものと ならぬなりけり

子をあまた殺しぬる人に教え慈悲させぬればよくなる人に
慈悲はみな 菩薩のなせる わざなれば 身の災いの いかであるべき

身の咎をあらめて悦ぶ人に
おそろしき 我が身の咎を あらためて 大安楽に 入る法の道

三世不可得
色々に 現われいづる 心かな 心ももとは 何もなし

道を問う人に
天土の 外までみつる 身なれども 雨にもぬれず 日にも照られず

老人に
おろかさの なと身の上に つもるらん 老い弱りても 死を知らぬなり

長生きを好む人に
千世ふへき 心を思い 捨てぬべし 月日はいつも  おなじ事なり

あまた道をたづぬる人に
色々の 教えに迷う 法の道 知らすば元の 物となるべし
さかしまに 阿鼻地獄へは 落つるとも 佛になると さらに思うな

慎みを問う人に
つつしみと 云える言葉に 迷うなり 只何もなき 心をぞ云う

或る人に
何事も 凡夫に変わる 事はなし 佛と云うも 大魔なりけり

夢を問う
寝ても夢 起きても夢の 世の中を 夢と知らねば 夢はさめけり
生きている 物を確かに 知りにけり 泣けど笑えど 只何もなし
死にて後を たしかに思い 知りにけり 只何もなし なきものもなし

予が常を問う
本来の 悟りのしるし あらわれて 身さえ残らず 消えはてにけり

我こそ慈悲すれと思いし人に
常々に 心にかけて する慈悲は 慈悲の報いを 受けて苦しむ

理を問う人に
みちのくの 浜名のはしの 音羽山 雁の鳴く音に 駒いはふなり

ある法師人に法を説くによめり
悟りても 身より心を 縛り縄 とけざるうちは 凡夫なりけり

法の難きを問う人に
世の中の 人の難きは 他になし 思う我が身は 我が難きなり

物を苦しむ人に
何事も 修行と思い する人は 身の苦しみは 消えはつるなり

徳山のうえに
天地の 外までみつる 一棒に 佛さえなく なりにけるかな

道教えける人に
道という 言葉に 迷う事なかれ 朝夕己が なすわざと知れ

世を捨つる事を問いし人に
捨てて見よ 浮世の外の 思い出に しかも浮世に 墨染めの袖

佛を問う人に
佛とは いかなる物を いうやらん 身にも知られず 心にもなし

色に迷う人に
うつくしき かたちと見るは 心なり 迷うは己が 身よりなすなり

妙法を問う人に
身も破れ 心も消えて なけれども 迎える物の しなにまかする

衣をきるに
畜生の 形に着たる 袈裟ごろも 天より縛る 縄と知らずや

極楽を願う人に
極楽の 玉のうてなは 外になし 生きながら身の 無きをしるべし

法を説く法師に
殺せ殺せ 我が身を殺せ 殺し果てて 何も無き時 人の師となれ

道を教えて
てくる棒を 回すは人の 回すなり 人回すは 一物もなし

無理非法の人に
さりとては 是ほどむくふ 善し悪しに 何とて人は 慈悲をせざらん

道を問う
物の名は 其の色々に かわれども 名無しの名をば 呼ぶ人ぞなき
神佛 また天道と 名を変えて 只何も無き 心をぞ云う
何も無き 心を常に 守る人は 身の災いは 消え果つるなり

道人は云いたき儘なれども人に触らぬと云いし人に
何も無き 物より出づる 物なれば 為す物事に 触らざりけり

念佛行者に
佛とは 何はかや 使いそめて 名も無きものに 迷いこそすれ

法師に
衣をば 虚空になりて 着れば着る 坊主の着るは 罰うくるなり

大道を問う人に
素直なる 道を守るは 心なり 道を破るは 我が身なり

法を聞きて人にわらわると云いし人に
阿呆とも 思わば思え 云わば云え 佛の道に 入る外はなし

佛道に智慧を嫌うを
人の上 我が身につけて 色々の 悪しきに出づる 智慧としるべし

我が友の山に入りしをとぶらいて
心より 外に入るべき 山もなし 知らぬ所を 隠れ家にして

臨済の上に
おのれめが 破戒の比丘と 成る事は 佛祖をころす 報いなりけり

後世を願う人に
死んで後を 佛とや人の 思うらん 生きながら無き 身を知らずして

あまた人使う人に
身を思う 人をあたりへ 近づけな 主をも親をも 殺すものなり

慈悲を問いし人に
思い立つ 慈悲を我が身に 破られて 畜生となる 後いかにせん

臨済ののたまいし聞き物を
耳も聞かず 心も聞かず 身も聞かず 聞くものの聞くを それとしるべし

或る人に
己が身に ばかさるるをば 知らずして 狐狸を おそれぬるかな

法師に
己が身の 佛とならで 説く法は 地獄へ落ちて 友を呼ぶなり

生死即涅槃
生き死にも 知らぬ所に 名をつけて 涅槃と云うも 云うは仮なり

煩悩即菩提
善し悪しを するにさわりは なかりけり 本来空の 物にまかせて

応無所住而生其心
すむ所 なきを心の しるべにて その品々に まかせぬるかな

佛成道
いまよりは 只ひとつなる 心にて よろずの物の 主となりけり

大道の極意を
ことごとく 死人となりて なりはてて 思いのままに するわざぞよき

草木国土悉皆成仏
草も木も 国土もさらに なかりけり 佛というも なおなかりけり

経を読みて佛とならんと思う人に
一切の 経は佛の 教えなり 坐禅はじきに 佛なり

しいて書物を読む人に
死して後 蠹(しみ)となるべき しるしには 文字におもいを 深くそめけり

無難かつねを問う人に
月も花も 昔の花ながら 見る物の物に なりにけるかな

無題
佛道に 入らんと思う 人はまづ 身より敵は なしとしるべし

人の身の 消え果る時 天地と ひとつになるを 道心と云ふ

無しと云えば 有るに迷える 心かな それをそのまま それと知らねば

佛はと たづぬる声を 聞く時は 耳もけがる 心地こそすれ

本来は 確かに無きと 知る人の 何の為にか 身は残るらん

十悪に 五逆の罪を 作りそえて 地獄の釜の 底は抜けけり

老僧が 思い出とては こればかり 見る事もなし 聞く事もなし

萬法は 只一如なる 法の道を 迷ひてたつる 宗旨なりけり

佛道に へだつるものは なかりけり 良きも悪しきも 我があらばこそ

親しみの 過ぎる所に あやまりは 必ずいづる ものとしるべし

何事も 道をば道に たておきて 心の慈悲に 行いて知れ

幾たびも 我が身の咎を 改めよ 身より難きは 他になきなり

心得し 道につかへば 使う人の 誤る事は 常になきなり

生き死にを 逃れて果てすは 武士の 道も必ず 誤るとしれ

あるわらはへのたのまれしにかく書きておくるなり  
                    江戸小石川戸崎町
                       至道庵蔵板
東北寺所蔵写本には左の三首多し

欲深き人に
凡夫らめ あまりに物な ほしかりそ 我が身さえ 我が物にならぬぞ

人の苦しむ時家滅ぶる也
かりそめも 人の苦しむ 事をせば 家の滅ふる 印なりけり
世の中を 逃れて 見事なるものは 坊主と色と 欲となりけり

長井自然老師の法話ではないですが、自然老師が示された和歌で無難禅師に行き着いたこともあって、自然老師の「知らずにやってるでしょ」は、無難禅師の知る以前にいものを感じるので、ここに載せます。「至道無難禅師集」春秋社の分を現代語にしたものです。

 
ある法師来たりて問う、如何是即心即仏。一棒をあたえて曰く、如何是即心即仏。
かれ禮拝して去る。

老婆来たりて問う、死にて後如何。予云く、不死。又問う、如何是生処。予云、一物もなし。婆無答。一棒をあたえぬれば、禮拝してさる。

老僧来たりて云、本有円成仏、如何して今汝となる。答え、不識、和尚かえって会すや。一棒をあたえんとす。予棒をとる。老僧去。予又去。

ある人問う、迷えば悟りとは如何様なることぞ。予云、迷わず、悟らず。

女問う、地獄如何様なる所ぞ。予云、苦しむ所。極楽を問う。予云、喜ぶ所。     かれ、佛を問う。予云、ありがたきものなり。それよりありがたき心出来て、さてそのありがたきは如何なるものぞと問えば、知らずと答たふ。予いはく、その知らざる処を常につとめよ。かれつゐにいたる。

人にすすめんと思わば、慈悲を第一とすべし。向かうもの如何ほど愚かなりとも、不便を加えて教えよ。

ある老尼来たりて問う、齢七十に及びて、今にや佛の迎えたまわんと思えども、今だ命永らえぬるといへるに、教えていわく、佛と言うは他にあらず、その方常に唱える念仏なり。南無阿弥陀仏と唱えぬれば、何の心も無きを佛と申すなり。必ず怠らずして念仏唱えて、ありがたくて何心も無きようにしすれば、即ち佛なりと教えける。ついに往生遂げにけるなり。

 ある童の心さかしきもの、佛(ほとけ)を問いけるまま、即ち坐禅さすれば、何の心もなし。それを常に守りて良しと教えて、さて程経て、色々に成りぬる心を問ければ、彼心得てさる。

男女に限らず、先ず見性させて、さて坐禅さすべし。見性十分に至りぬる時、萬事に應ずる事を教えよ。

悟りぬると等しく、それを守らせよ。悪念出づる事なし。年久しく養いぬれば、道人となる也。

悟りぬると等しく、萬物是也と教えぬれば、大方悪人になるもの也。悟りばかりを守る人、大方坐禅に取りつきて、りつしう(律宗?)に成るものなり。大道早く教えて良きと、早く教えて悪しきと、その人に依る也。よくよく心得て教えよ。誤まる事なかれ。

ある時、儒者に問う、天命はいづれを天を指すぞ、主命は確かにあると云えば、言葉なり。

又ある時問う、致知格物とは如何様なる事ぞと問えども、返答なし。

又ある儒の云わく、佛道の教えは人の種をたつと云えり。予云わく。孔子曾子子思の教え、釋氏(釈尊のこと)と同。如何なれば儒には人の種を苦しむぞ。釋迦尊佛の教え、悪しくうけて人に云う事、誤りの上の誤りなり。世尊六年仙人に仕えて身の業つくしたまひし也。六年坐して心を磨きたまひしなり。かるがゆえに、釋迦尊佛には身なし、心なし、生なし、死なし。是非を逃れて是非み交わり、有無をはなれて有無に交わりたまひしなり。法を説きたまひしを、名をつけて、あるいは法花浄土真言禅を云いし也。禅は釋迦の大道心の名なり。本来無一物の述べおかせられし事也。

孔子学而とのたまいしは、本心を見つけたまひし事なり。時にとは、行住坐臥の事也。習とは、修行の事なり。悦とは、本心にかなう事なり。曾子明々徳とは、心を明事也。格別とは、何も無き物なる事也。子思天命とは、魚は水に住むごとく、人は天に住むなり。身の中にある天を性と云う也。性自体にするを道と云う也。かくの如くの教えなれば、妻子眷属の詮索、更に無し。釋迦如来と、もとは一つなり。

我宗の根源、本来を窮めて、わが身を正しくする事也。

ある時、達磨を持て来て、物を書けと云いしに

「いかにして 是程嘘を つきぬらん 悟りとては無き 悟りなりしを」

「おのれめに 新た迷いを 覚まされて 世に住み甲斐もなき 身とぞなる」

「うつしえの おこたらで説く 法声を 聞く人あらば 達磨宗也」

ある人、臨済の絵を持て来ぬるに、

「おのれめが、破戒の比丘と 成る事は 佛祖を殺す 報いなりけり」

達磨に「是をだに 見る人毎の 迷いかな 書かずばもとの 達磨なるべし」

頭禿の時より、あたり近く物して慣れし心に、いと可愛ゆく思ひしを、彼甘えて、後に法師になりても、その心得なん失わでありしを見て、かくの如くにては冥加に尽きなん事をあわれに思ひ、退く。我が心にあらねども、後の彼が報いを思ひ返してける。彼もいと苦しげにて去る。

かりそめの 別れだに 憂き身なりけり 迷いのうちは 人の世の中

(頭禿ー肩までで切りそろえた児童期の髪型、あるいはその髪型をした子供を指す。)

ある人、法師にならんと問いしに、つまびらかに語りてけり。第一、身を捨つる事を元とす。己が心を思ひ切らせんためなり。肉を喰らわざるは、血気を静めんためなり。魚鳥もとより我が友なり。魚鳥に我が親兄弟なりしも知らざれば也。この三を以て法師は忌む也。

如何にしてこれほど佛法廃りぬらん。つくづくと思うに、他にあらず、皆身の内より病となりて、終にその身を滅ぼす事たしか也。他の咎(とが)にあらず。釋氏の咎也。皆道に違いぬる故也。理(ことわり)かな。本師釈迦如来、天竺国の主として、国を捨て、妻子を捨てたまひし也。今は世に捨てられて、詮方なく頭下ろして、人にへつらい世を渡る。姿を変え、技を変えぬるばかり也。心に求むる所は、昔より浅ましき事也。

ある時、昔の人のいひし事とて、迷えば悟るといえる人あり。又ある人のいひし、悟りは無きと云う人有。

我が辺りに小さき子の云いしは、昨日咲き菊の花、今日は蝶に成たると云う。ある人の云いしは、蝶止まりぬるならんと云えり。

昔天下の道人と云われし人、てくる棒(如意棒?)を回すを見て、泣きたまひし也。また同時同様に云われし人、寝ぶりておはするあり。

ある時、いと寝ぶたかりしに、肘を枕として暫しまどろみぬるに、夢の内に月日の光家に満てり。目を開きぬれば無し。

屏風の上に猿の居て鳴きしに、夢覚ましてけり。夢いと面白かりしを覚ましぬる事よと、独り言している。

破り襖の内より、頭白き翁出て頷く。何事かはと問いしに、坐禅すと云えり。

昔我が坐禅してけるに、いと清らなる女の来て、辺りに居しかは、坐禅夢の如くに破ぬる事有。

ある時、清らなる児の物語りたまひしは、悟りと云う物は無きと付けたまひしを、いと尊くおもひける。又ある法師、わが家は悟りと元とすと語りし、いと尊かりけり。

後世を祈る人に、我、問うて云わく、如何様なる心を元として祈りたまふと問えば、知らず、ある人、佛に成るといえるによりてなんと云えり。我教えて云はく、知らずは祈らぬかまさんか。

ある人、後世を如何様に勤めなば良からんと問いしに、南無阿弥陀仏と念じたまえと教えける。

又ある人、生まれぬ先を知らず、死にてのちも知れまじきと云いし人有。我問うて云はく、恒の心は如何と問いしに、色々に望む事あれども叶わぬと云えり。予云はく、若し叶ひなば、如何許り嬉しかりなんと問いしに、左なんと云う。予教えて云はく、何も思はで居給えと云いしにつけて、何も思はぬ行をすとて、眼を見開き、強く勤めぬる由云いしが、まことに後には思はぬ人に成りし時、何か願い有りやと云えば、無しと答ふ。さては願いの満ちぬるはいと目出度しと云いければ、彼頷く。

ある真実なる問い事しける人あり。予教えて云はく、その問う主は誰ぞ。彼云く、知らず。予又問う、その知らぬ者は誰ぞ。彼云く、何もなし。又云う、色々に変ずるものは誰、彼云く、元何も無きものなり。予云く、外に佛なし。それすなはち佛なり。佛とは無きものの名なり。

我昔臨済の絵を持て来ぬれば、上に書

「おのれめが 破戒の比丘と なる事は 佛祖を殺す 報いなりけり」と読みし也。

何とて世の人はかくまで迷いぬるぞや。わが手足を動かし、物を言わせ、わが身の主を見れば、さりとては何も無きものなり。

いと若き時、ある形清げなる稚児の辺りに物しける時、心の移る事を確かに覚えぬれば、迷いという事を良く知り侍りぬ。

いと清らかなる女の辺りに居て、何とも思わねば、悟りと云う事を良く知りぬ。ある人、本来に迷いも悟りも無きと云いしを、今良く思い当たりぬ。

心経に摩可般若と云いしは、身を無くして萬事に應ずると云う事を今良くしりぬ。

修行する人は第一身の業を去ると云う事、今良くしりぬ。

修行者は身を痛むると云う事、今良くしりぬ。

天下国家を治むる人に佛道おしえよと云う事、今良くしりぬ。

天下国家の主は主なりと云う事、今良くしりぬ。

時の至る時と至らざると云う事、今良くしりぬ。

報いのあると云う事、今良くしりぬ。

例えばわが子に教えて云はく、君によく仕えよ。人の悪を云う事なかれ。萬事の道を心得よ。というばかり也。愚かなる事なり。大道に至る人、人の悪をも善をも云う事なし。君に仕え、親に孝を積む也。萬事を聞きて、人は只つねの心を知らせたきもの也。何も無くなれば、何も云う事無きもの也。常に心賢げなる人は、胸につかえぬるほど人の善し悪しを知るにより、云わじと思えど、その心におさへるによりて、猶云いて、又言葉を巧みに添えけるにより、大悪人と人を云いなせり。かるがゆえに、世の人ついに交わるに正しからず。浅ましき也。

ある法師、即心即佛を問う。予云く、是非の外。

ある人、非心非佛を問う。予云く、是非の外。

是非の外を云う。予云く、是非の外、又問う。一棒を与う。彼心得す。

ある寺法師物語りするを聞くは、中々世の中を見下して、高き事及び難し。

ある寺法師物語りす、ひきき(低き)事云いにたらす。

兎角人のならぬ道なり。或いは高し。或いは低し。本来無一物を知らず。

ある人、男女の交わりを忌む。予云く、佛道にあらず。男女は交わる物也。

ある法師来たりて、大道人、男女の交わりに触らずと云う。予云、己が道にあらざる事、云うなかれ。

妙心寺の関山国師は一則にて悟道ありしに、今三百則こさする(越さする?)とは如何様なる事ぞと問いし人に、予云く、朝夕、飯(いい)を食してその味知る人稀なり。もし知る人あらば、喰らわざる人なり。

ある夕暮れに、いと寂しくてありしに、鐘の響きければ、ふとあわれに思ひて、
「慣れて聞く この夕暮れの 鐘の声も 思えば何時の 別れとかせん」
世の中の無常を思えば、この夕暮れ惜しむべきも、理(ことわり)にこそ。

高き人卑しき人集まりて佛を問いしに、手を打ちて、此の音を聞くは一つ也、なと各々高き卑しき身に変わりあると問えば、さては身を思えば分る、身を知らぬ時はへだて(距て 隔て)無しと云えり。予云く、そのへだてぬ所を知るものは誰ぞ。集まりし人の内に、只独り、今日も又暮に及ぶと云う。

若き法師に、善悪不同かと問いしに、口を動かんとする時、一棒を与えて、何の邪正かあると云えば、悟る。

ある経法師、悟りはへだて無し、せめて経を読み助からんとて、広げぬるを引き取りて、その経を以って、萬法へだて無き処を知れとて、打てとも知らす。

ある人、身の業とは如何様なるものぞと問いしに、予云く、その問う迷いをされ。

ある賓なる人、身の業とて苦しむ。予云く、その苦しみを去れ。

ある富貴なる人、過去の業を喜ぶ。予云く、その喜びを去れ。

萬法を捨て何事かある。今の世に捨て、捨て果てよ。捨てて後捨つるもの無くなりて、予に問え。

萬法を捨てよと云えば、無念無心にして、石かわらの如くに成ると思えり。

萬法の元を見よと云えば、又見るものになるなり。

何も無き ものはこの身の 主なるを 何とて人は それと知らずや


ある人さとらて(悟らず)山居せしに、詠みてやりける、

「思ふままに 捨て山路に 入りぬれど その身の主は 元の主なり」

ある人悟りて山深く入りぬるに、詠みてやりける、

「山風も 里の嵐も 身に沁みて 同じ色なる 秋の夕暮れ」

坐禅の大事を問いける人に、さする(させる)も悪しし、させぬも悪しし、悪しからぬものを常に養いたまへと云やりければ、詠みて起こせる、

「留まるも 行くも帰るも 恒なれば 恒の心 恒だにも無し」
予云、 如是如是。

ある人につけて云はく、本来、道と云事も無し。ものに任するばかり也。

「道という 言葉に染めて 迷いけり 本来は只 何も無きなり」

さてもさても世の衰えし事と云いし人に、何をかのたまう。日月星山河大地、昔に変わらぬものと思いしか、雪も昔は白からぬかと疑いぬる如く、佛の教え、孔子の教えの誓いぬることよ。その言いおかせられし事の明らかさよ。それを断わる人の汚けさよ。世に人を支えぬるも理なり。諸教に述べおかせられし事、四書にのたまいし事のそのままに読まば、如何程ありがたからんに、後の人のことわりにこれほど悪しからんとは、誰か知り侍らん、もしもし世人素直になりて聞く事あらば、天命の明らかなる事を知らんか。佛道のありがたき事を知らんか。

第一佛は無一物を教えて、ある時、南無阿弥陀仏と名をつけ、妙法と名をつけ、阿字本不生と名をつけ、禅と名をつけて、本来無一物を色々に述べ給いし也。

孔道は天命を性と云い、又大学は明徳を明らかにせよと云い、又知を究むる事は物に至ると教え給いしも、本来無一物の事なり。

直に云わば、人は只本来何の心もなければ、生死も無し。邪正是非をはなれて、しかもはなれず。わが身なければ、思い無し。思い無ければ、災いはなし。わが身無ければ、君に仕えて忠を尽くし、親に仕えて孝。身あれば念あり。念あれば願いあり。願いあれば苦あり。かくのごとく明らかに知れし道を、己が様々云い為して、佛道は佛道の内にて争い、儒は儒の内にて佛を叱り、己己をたてし悲しさよ。またかく云えば、是れを争うと云う人あり。何とも堪え難き人の心の恐ろしや。各様の事を世の末を云いしを知らざればことはり(理)也。

この一巻、我が弟子辺りに近くありしに、書きて与えて云わく、必ず後世を願う人は、色々に心に苦しみあり。直に佛を知る人は願い無し。これを良く知るべし。無我の我を以って人に教えれども、有我の我をもって聞く人は知らず。各様の人は、慈悲を与える事なかれ、

聞く人には、第一、見性をさせて、坐禅して勤めさせよ。勤めに従いて確かになる事疑い無し。

 寛文六丙午神無月日

                        士道庵主 無難

  孚仙におくる

法語
一 身の外は佛なり。例えば虚空の如し。かるがゆえに、位牌の上に帰空と書くなり。
一 常に何も思わぬは、佛の稽古なり。
一 何も思わぬ物から、何もかもするが良し。
  生きながら 死人となりて 成り果てて 思いのままに するわざぞ良き
 諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽、この歌の心なり。

神道を問う人に
一 高天原は、人の身なり。神止まるは、胸の内明らかなるを云う。

儒道を問う人に
一 天命、性と云う、身の外は天地。胸のうち何も無きは、天より命したると也。即性と云う。性次第にするを道を云うなり。

仏道を問う人に
一 身をなくするなり。身に八萬四千の悪あり。身無ければ大安楽なり。直に神なり。直に天なり。我が家に佛と云うなり。

出家精進を問う人に
一 出家精進をするは、五辛酒肉を以て気血甚だしき故に、胸のうち清からず。是一。有情皆我友也。是二。君臣父子夫婦兄弟朋友、何者か魚鳥に変せんを知らず。これらを以って忌むなり。
一 ある人、民をなつけん事を問う人に云わく、乾きに水を与え、寒きに衣を与え、飢えに食をあたへば、民なつくべし。
一 少将にておはせし人、厳子に世を譲られし時、第一慈悲、第二無欲、第三萬依怙なく、 この三言を以って国を治めと也。物を読までも心を明らめられし印なり。
一 釋迦にしゃかなし、法なし、教なし、習いなし。爰をなづけて妙法を説き、阿字となづけて、真言を説き、佛となづけて阿弥陀教を説き、四十九年一字不説とのたまう。根本無き故なり。元来はここは云う事ならず。かるがゆえに此の一字は説かれず。これを得道するを禅と云う。
一 道を修する人、千萬人に一人も、道を知る人ありとも、我がものにする人なし。わが物にする人あれども、それをすつる人なし。
一 大名高家に生まるる事さえ世に稀なり。過去にてよくよく慈悲をし、功徳をして、今世に大名高家、その品々、因果を表すなり。たまたま大名に生まれては、我が意に任せ、色々の悪をし、昔より浅ましくなるべし。哀れなり。或る人、我に問う、生まれ変わる事慥(たしか)なるや。予云く、生国はいづこぞ。彼云く、西国。又問う、その生まれし所に行きて見たまえと云えば、いかにも行きて、我が元の屋敷居所、今目前に有りと云ふ。予云、只今身ありやと問えば、何もなしと云う。ここにて心得たまえ。その身死すれば、思う所に留まるなり。西国へつまはしきせざる内に念行くなり。只今これは何のためにをばするぞ。彼云く、法の為。予云く、法の為には寺へ来る。色を好めば遊女を訪ねて行く。常に汚き心あれば、畜生に形を移す。きれいに慈悲心あれば、人に生まる。疑うこと無かれ。念は方々へ行く。身は念の宿也。佛と云うは彼処へも行かず、此処にも居らず、一念もなし、身もなし、虚空と一体なり。かれ確かに心得て去る。
一 火の辺りはあつし。水の辺りは冷ややかなり。大道人の辺りへ寄れば、身の悪消ゆるなり。これを道人と云う。率時に道人と云う、恐ろしき事なり。

我庵門徒中に法度之事
一 坊主は天地の大極悪也。所作無くして渡世す。大盗人也。
一 修行果満ちて人の師とならん時、天地の重寶也。萬渡世の師のみ有り。大道の師まれなり。
一 一紙半銭おろかにする事なかれ。
一 人よりものを受くる事、毒薬と思え。大道成就の時、人の惜しむものを受くべし。其の人を助けるゆえなり。
一 修行の内、人に打たれ踏まるる時、過去にて我が為す業作ると悦ぶべし。
一 一夜を明かすとも、亭主の着る物借る事なかれ。隅に寄りかかりて臥すべし。大方はふくすに入れて持ちて行くべし。約束の日、雨雪にも行くべし。
一 大道成就せざるうち、女を近づくべからず。
一 心ざし無き家に泊まるべからず。
  右九か条常に守るべし。外は古徳の語にあり。

一 人に教え難き事あり。行住坐臥、直に是大道、愚なる人はやすしと思い、たまたまに本心を見る事あれども、常に馴れ慣れし道に通う心強し。
一 人に教え難き事あれども、世智の過ぎたる人。
一 人に教え難きあり、富貴を好む人。
一 大道、心かけるには、悪しき友を去るべし。
一 或る人、迷いの元を問う。善し悪しを知るが元なり。
一 或る人、悟りの元を問う。善し悪しを知るが元なり。
一 我が心を如何して見んという人に、
  色好む 心に変えて 思えただ 見る者は 誰ぞ 聞く者は誰ぞ
一 有難き事を思う。これほど下部まで何院かいんと云えども、王と云う字を除く。
一 その道々の賢き人を訪ねば、よろしかるべし。法師を俗より良し悪しを選ぶ、法師より俗の良し悪しを云う、あらましは知るべし、至り手はおぼつかなし。昔、若き時、人ののたまいしを聞くに、鐙に名の多きを思うに、武士の我が事さえ、いたりては測りがたし。まして我が家にあらぬ事は、おぼつかなし。
一 予が弟子、死霊を弔う事を問う。第一身を消し、心を消し、修行成就して弔えば、浮かぶ也、年老い、色の念無くても、心に映るうちは。とぶろうても浮かぶ事なし。必ず無念にして弔えば、悪霊も浮かぶなり。この道成就する人には、確かなる印あり。向かう時、男女共に悪念消ゆるなり。これを道人と云う。
一 釈迦如来の御心を指して、道心と云う。御かたちを出家と云う。御さほうを乞食と云う。佛法廃り果てしも、理なり。寺に使う下坊主を道心と呼び、非人を乞食と云う。二つの御名は、筆にし及ばぬ卑しきものに譲りぬ。今一つ残る出家は、身の無きを云う。天下に誰か身の無くなる人のあらんや。
一 衣着るほどの人、必ず女の辺りへ寄るべからず。如何に身に誤らずとも、心に映るなり、故に女に近づくは、必ず畜生の稽古なり。老僧の女を忌むは、畜生の心残る故なり。
一 人は名と装束にて、位に登る。秀吉は尾州熱田の宮より五十町隔て、中村と云う、萱家わずかに三十ほどある所の、浅ましき下人の子なり。天竺にも、大唐にも、日本にも、これのみの御人なり。實に有難き事なり。兵法も軍法もしろしめさで、大敵を傾けたまう事、風に草のなびくが如し。武士の氏神たるべしと、ある高家ののたまひしを、げにもと思えり。
一 唐土に、隣の家崩れて、其の内の女寒しとて、懐にいれて臥す。唐土にかかる名誉の男なればこそ、書き留むれ。我が師湯浴ひ給えるに、女後ろより前にいたり手、残らず洗う。これもわが国には珍しからんと思う。
一 例えば栗を植えれば栗の木生ず。人の種は白露なり。ゆえに年老いても、法に心ざし無ければ、心に絶えず。利欲は色をかさらんためなり。利欲はなはだしきは、主君を殺し、親を殺す事、確かなり。
一 維摩居士は、一度に二三百人を悟らせたまう。大唐の六祖大師は、柴を売りて渡世たまいしが、如来の説き置かせたまう、何も無き処より出づる心は萬事によしと、人の読みけるを聞き召して直きに御心開けりと、今に云い伝え侍る。さては物を知らでも成る事と思い、何も無き心を尊み、よくよく思えば、いたずらに色を好み寶を望むは身なりけりと、如来仰せられしなり。さて身の無き様の教えを広めたまふ。我人、身死にて後ならでは身は無くなるまじと思いしに、常は身の無き事を、だれも誰もしる事なり。ほとけの教えは安くして素直なりと心得て、人にも語れば、物知りは、何とて不学なにてならんやとて、聞きいれぬなり。心ある人は、有難しといふて悦ぶ。
一 おかしき事ながら、昔、何人にてかあらん、鎌倉殿の前にて、珍しき物をうけて、道持て行くに、子供集まり、それたまえと云えば、取らせて行くとなん。中々成り難き事と、頭振り、目に皺寄せて、打ち頷く。我も人も思い入れて感じける所に、いと若き人、何を感じけるとて、懐より餅取り出だして与えたり。折節腹ふくれ、食わずして、我もまた懐へ入れている所へ、人来たりて、何にもても食わせやと云いけるに、取り出だし、彼にあたえて食わせけり。彼も悦び、われもよしと思うにつけて、確かに思いあたれり。何も無き心から為す技は、向かいもよし我もよしと思う。これやほとけならん、知らず。
一 或る人の語りしは、心経を人の読みて聞かせられし中に、形をなくせよと仰せられしなり。さても有難きおしえかな。人は知らず、我確かに思い当たりて知る事なり。昔、朝夕、風紀を好み、身も安らかに、子供にも与えんと、若き時より思いつめて、苦しみ奉公して、主君の御心にかない、また家の年老いぬる心にも違わぬ様にと、御佛にも祈りしが、只今すきとなくなりたり。今まで身を良くせんと思いし故なり。釈迦如来の仰の如し。身を思はねば大安楽也、極楽也。佛の恩、いよいよ深し。さてまた常に頼む人の辺りへ行きぬれば、何時より心安く前近く呼び、今まではその方なにとやらん物難しかりつるが、今は何心もなしと、褒められしなり。我が胸安楽なれば、人も見しれりと思えり。
一 物しり坊主、ある時予に向かいて云う、その方も禅と聞く、禅も十色などをおぼえて禅と云い難し。予、無言にして居す。つらつら思うに、浅ましき事なり。大道元来知るは誤ると云う事を知らず。常に学に苦しみ、覚に苦しみ、己を高ぶりて、咎あり。
 物しりは 佛に遠く なる見方 知らぬは直に 身の終わりなり
 一 あるひと、常の勤め様を問う。予云、人々、心に恐るべし。主君は許す事あり。心に見つけられし咎は、許しなし。
一 本来教えの外なれば、詮方なし。釈迦如来、妙法を説きたまひしも、大きなる誤りなり。

或る老尼、心経の註の細やかなると持来たり、是を見れども、昔人ののたまいしは、聞き分け難しと嘆く。いと哀れに思い、愚かさを省みず、言葉を添え侍る也。

摩訶
は大也身なきを云う般若は何も無き処より出づる智慧を云う波羅蜜多は摩訶より出づる智慧は何処にも滞らず留まらざる也心経身の悪消し尽くすを云う、其れより出づるは皆経也

従是末は皆註也

観自在菩薩 見れば我に有る菩薩也 行深般若波羅蜜多時 身を無くするを云う 照見五蘊皆空 身無き事確か也 度一切苦厄 身無ければ苦しみ無き也  舍利子 聞く人を指す 色不異空空不異色 身と虚空とひとつ也 色即是空空即是色いよいよ落ち着き何も無き形也 確かにしるべし形の悪消える時形なし色を思い宝を望む時必ず形有り是にてわきまえ知るべし 受想行識亦復如是色さえ空すれば受想行識も無き也 舍利子 前に同じ 是諸法空相 云うに及ばす 不生不滅 虚空に何も生ぜず滅せず也不垢不浄 虚空に汚き事も綺麗なる事も無し 不増不減 虚空に増す事も減る事もなし 是故空中 云うに及ばす 無色無受想行識 虚空とひとつなれば何も無き也 無眼耳鼻舌身意 虚空には無きなり 無色声香味触法 元より無き也 無眼界乃至無意識界 前に同じ 無無明亦無無明尽 無明も無し又無明の尽きて無きと云う事も無し元来無きと云う事無きと思う事も無かれ 乃至無老死亦無老死尽 前に同じ 無苦集滅道 空に苦無し集無し滅なし道無し 無智亦無得 空に智無し得る事無し 以無所得 云うに及ばす 故菩提薩埵 此道行人只今も此名也 依般若波羅蜜多故 身を無くする事第一也 心無罣礙無罣礙故無有恐怖 身無き故元より物に恐るる事無し 遠離一切顛倒夢想 身無き故一切うろたえる事無し 何もかも離れ外れる也 究竟涅槃 ひっきょう涅槃は生死無き事也 三世諸仏 云うに及ばす 依般若波羅蜜多故 身無きを云う 得阿耨多羅三藐三菩提 死人の生き返るが如し  故知般若波羅蜜多是大神呪 云うに及ばす 是大明呪 云うに及ばす 是無上呪 これより上無き也 身無くする故此の如し 是無等等呪 何も比ぶる事無き呪也 能除一切苦真実不虚 一切の苦すぎて無し  故説般若波羅蜜多呪 身無き所より成す事の有難きを云う 即説呪曰 云うに及ばす羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経

心無く 身も消え果てて 何もかも 云いたりしたり なりやなるらん
                          至道庵主 無難

この世にて親の敵討たぬは、一世の恥なり。この身爰にて殺さねば、萬劫の苦なり。此の身を殺すは、直に如来になれば殺すなり。大乗最上乗の人には、如来を教えて、萬法を云わず。如来は慈悲功徳有り、勿論無虚無実無去来。
或る人、地獄を問う。予云、汝が身にせめらるるを云う。極楽を問う。身のせめ無きを云う。佛を問う。身心共になり。彼云く、死人の同じ。予云く、生きながら死人になると云う。我が宗は悟りなり。なんじ古今の苦楽、目前にして有りや無しや。彼云く、何も無しと云う。
人の身の 作法をさらに かえずして 悟りてみれば 只何もなし
人の身の 作法をさらに かえずして 迷えば常に 苦しかりけり
佛法、天地の内の霊とて大善なり。人は天地とかたちとする故行うなり。

佛と云、神と云、天道と云、菩薩と云、如来と云、色々難有名は、人の心を変えて云也。心一物もなし。心の動き、第一慈悲也、やわらかなり、直(すなお)也。
主君に向かえば忠を思い、親に向かえば孝を思い、夫婦兄弟朋友に向かえば、その品々に道を正しくせんと思う。これ心の本意なり。かくありがたきものなり。
心を妙と云、阿字と云、阿弥陀と云、悟と云。疑い無し。我が咎、我が心に見られては、許す事無し。必ず悪人、咎を受くるは、その身の心許さぬ故なり。疑い無し。善人次第に良く成るは、其の身の心よりよき事をあたふ。疑いなし。かく明らかに人々備わるなり。
かかる有りがたき物なり。上一人行い給えば、天下平らかなり。国主行う時、其の国安し。家主行う時、其の家安し。其れを知らずして、萬ず我意にまかせ、身の悪に騙され、人の上を色々に良し悪しにつけて妬み嫉み、我身我心片時安からず、常に苦しみ悲しむこと絶えず。その悪念に惹かれ、死して行く世も浮かぶ事なし。あさましく悲しき事なし。
佛世に御出有りて、身のを咎を去るべしと、咎無ければ身無し、身無ければ直に佛と、御教え有り難し。
修行と云は、人々身の咎を去るべし。立ち居につけて、我が咎を我が心に見せて去る事を怠らねば、ついに去り尽くして、我が身直に虚空、虚空直に我が身なり。疑いなし。其の時、生も死も、萬物過ぎと逃れて、大安楽なる故、極楽と云う。願い求むる事無き故、佛と云う。疑い無し。
身も消えて、心も消えて 渡る世は 剣の上も 触らざりけり
疑いなし。

人常に誤る事
人に騙されて苦しみ、我に騙されて悦ぶ事。
人の死をしりて我が死を知らず。
人の是非を選び我が不作法の事。
本来無と云えば無と知ること。
佛道に法を立つる事
佛道に不入は身守る事ならず。
祈念する人有り、身の佛を不敬。
貧を苦しみ、逃るる事知らず。
悟りを以って佛法と云う。悟る人稀なり。
一念悪気翻す事ならず。

右此の一冊、寛文庚戌末秋、是を集めぬるにつけて、此の上加筆誤りに似たりと云えども、不思議に命永らえ、齢七十四歳に及びて、釈迦如来御説法、少しも説法せずと仰せられし事、生も死も萬物直に無き事なと、述べおかせられしにつけて、予ふと思い出て、予が一世の成す事一つも無し、是誰も誰も知る事なれば、もしは赴く人もかなと願うにつけ、辞しがたく、筆加えぬるも、我がごとく愚かなる人の助けにもやならんかし。七十四才にて、此の一枚の奥書をと、しいて門弟好むに任せ、筆を染め侍る也。
延寶四丙辰仲夏               無難




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