きっかけは自然老師が法話で言われた、「本来は教えも出来ず習われず 知らねば知らず知れば知られず」と言う歌を覚えていたことから、無難禅師をしりました。
考え、分別でないことを終始示されている無難禅師は、「知らずにやってるでしょ」といわれる自然老師の世界と同じだと感じました。
読んでいると「知らない」世界が展開される様で、電車の中などで読むのに良い書ではないでしょうか。
多くの方に読んで頂けるように願って、お届けいたします。 (書き起こし・編集担当 S.Tatsuta)
長井自然老師の坐禅会情報及び講話を載せています。日本語と英語(Japanese & English ) 師弟法話集のダウンロード可能です。
(長井自然老師の法話ではないですが、自然老師が示された和歌で無難禅師に行き着いたこともあって、自然老師の「知らずにやってるでしょ」は、無難禅師の知る以前に近いものを感じるので、ここに載せます。「至道無難禅師集」春秋社の分を現代語にしたものです。)
ある法師来たりて問う、如何是即心即仏。一棒をあたえて曰く、如何是即心即仏。
かれ禮拝して去る。
老婆来たりて問う、死にて後如何。予云く、不死。又問う、如何是生処。予云、一物もなし。婆無答。一棒をあたえぬれば、禮拝してさる。
老僧来たりて云、本有円成仏、如何して今汝となる。答え、不識、和尚かえって会すや。一棒をあたえんとす。予棒をとる。老僧去。予又去。
ある人問う、迷えば悟りとは如何様なることぞ。予云、迷わず、悟らず。
女問う、地獄如何様なる所ぞ。予云、苦しむ所。極楽を問う。予云、喜ぶ所。 かれ、佛を問う。予云、ありがたきものなり。それよりありがたき心出来て、さてそのありがたきは如何なるものぞと問えば、知らずと答たふ。予いはく、その知らざる処を常につとめよ。かれつゐにいたる。
人にすすめんと思わば、慈悲を第一とすべし。向かうもの如何ほど愚かなりとも、不便を加えて教えよ。
ある老尼来たりて問う、齢七十に及びて、今にや佛の迎えたまわんと思えども、今だ命永らえぬるといへるに、教えていわく、佛と言うは他にあらず、その方常に唱える念仏なり。南無阿弥陀仏と唱えぬれば、何の心も無きを佛と申すなり。必ず怠らずして念仏唱えて、ありがたくて何心も無きようにしすれば、即ち佛なりと教えける。ついに往生遂げにけるなり。
ある童の心さかしきもの、佛(ほとけ)を問いけるまま、即ち坐禅さすれば、何の心もなし。それを常に守りて良しと教えて、さて程経て、色々に成りぬる心を問ければ、彼心得てさる。
男女に限らず、先ず見性させて、さて坐禅さすべし。見性十分に至りぬる時、萬事に應ずる事を教えよ。
悟りぬると等しく、それを守らせよ。悪念出づる事なし。年久しく養いぬれば、道人となる也。
悟りぬると等しく、萬物是也と教えぬれば、大方悪人になるもの也。悟りばかりを守る人、大方坐禅に取りつきて、りつしう(律宗?)に成るものなり。大道早く教えて良きと、早く教えて悪しきと、その人に依る也。よくよく心得て教えよ。誤まる事なかれ。
ある時、儒者に問う、天命はいづれを天を指すぞ、主命は確かにあると云えば、言葉なり。
又ある時問う、致知格物とは如何様なる事ぞと問えども、返答なし。
又ある儒の云わく、佛道の教えは人の種をたつと云えり。予云わく。孔子曾子子思の教え、釋氏(釈尊のこと)と同。如何なれば儒には人の種を苦しむぞ。釋迦尊佛の教え、悪しくうけて人に云う事、誤りの上の誤りなり。世尊六年仙人に仕えて身の業つくしたまひし也。六年坐して心を磨きたまひしなり。かるがゆえに、釋迦尊佛には身なし、心なし、生なし、死なし。是非を逃れて是非み交わり、有無をはなれて有無に交わりたまひしなり。法を説きたまひしを、名をつけて、あるいは法花浄土真言禅を云いし也。禅は釋迦の大道心の名なり。本来無一物の述べおかせられし事也。
孔子学而とのたまいしは、本心を見つけたまひし事なり。時にとは、行住坐臥の事也。習とは、修行の事なり。悦とは、本心にかなう事なり。曾子明々徳とは、心を明事也。格別とは、何も無き物なる事也。子思天命とは、魚は水に住むごとく、人は天に住むなり。身の中にある天を性と云う也。性自体にするを道と云う也。かくの如くの教えなれば、妻子眷属の詮索、更に無し。釋迦如来と、もとは一つなり。
我宗の根源、本来を窮めて、わが身を正しくする事也。
ある時、達磨を持て来て、物を書けと云いしに、
「いかにして 是程嘘を つきぬらん 悟りとては無き 悟りなりしを」
又「おのれめに 新た迷いを 覚まされて 世に住み甲斐もなき 身とぞなる」
又「うつしえの おこたらで説く 法声を 聞く人あらば 達磨宗也」
ある人、臨済の絵を持て来ぬるに、
「おのれめが、破戒の比丘と 成る事は 佛祖を殺す 報いなりけり」
達磨に「是をだに 見る人毎の 迷いかな 書かずばもとの 達磨なるべし」
頭禿の時より、あたり近く物して慣れし心に、いと可愛ゆく思ひしを、彼甘えて、後に法師になりても、その心得なん失わでありしを見て、かくの如くにては冥加に尽きなん事をあわれに思ひ、退く。我が心にあらねども、後の彼が報いを思ひ返してける。彼もいと苦しげにて去る。
かりそめの 別れだに 憂き身なりけり 迷いのうちは 人の世の中
(頭禿ー肩までで切りそろえた児童期の髪型、あるいはその髪型をした子供を指す。)
ある人、法師にならんと問いしに、つまびらかに語りてけり。第一、身を捨つる事を元とす。己が心を思ひ切らせんためなり。肉を喰らわざるは、血気を静めんためなり。魚鳥もとより我が友なり。魚鳥に我が親兄弟なりしも知らざれば也。この三を以て法師は忌む也。
如何にしてこれほど佛法廃りぬらん。つくづくと思うに、他にあらず、皆身の内より病となりて、終にその身を滅ぼす事たしか也。他の咎(とが)にあらず。釋氏の咎也。皆道に違いぬる故也。理(ことわり)かな。本師釈迦如来、天竺国の主として、国を捨て、妻子を捨てたまひし也。今は世に捨てられて、詮方なく頭下ろして、人にへつらい世を渡る。姿を変え、技を変えぬるばかり也。心に求むる所は、昔より浅ましき事也。
ある時、昔の人のいひし事とて、迷えば悟るといえる人あり。又ある人のいひし、悟りは無きと云う人有。
我が辺りに小さき子の云いしは、昨日咲き菊の花、今日は蝶に成たると云う。ある人の云いしは、蝶止まりぬるならんと云えり。
昔天下の道人と云われし人、てくる棒(如意棒?)を回すを見て、泣きたまひし也。また同時同様に云われし人、寝ぶりておはするあり。
ある時、いと寝ぶたかりしに、肘を枕として暫しまどろみぬるに、夢の内に月日の光家に満てり。目を開きぬれば無し。
屏風の上に猿の居て鳴きしに、夢覚ましてけり。夢いと面白かりしを覚ましぬる事よと、独り言している。
破り襖の内より、頭白き翁出て頷く。何事かはと問いしに、坐禅すと云えり。
昔我が坐禅してけるに、いと清らなる女の来て、辺りに居しかは、坐禅夢の如くに破ぬる事有。
ある時、清らなる児の物語りたまひしは、悟りと云う物は無きと付けたまひしを、いと尊くおもひける。又ある法師、わが家は悟りと元とすと語りし、いと尊かりけり。
後世を祈る人に、我、問うて云わく、如何様なる心を元として祈りたまふと問えば、知らず、ある人、佛に成るといえるによりてなんと云えり。我教えて云はく、知らずは祈らぬかまさんか。
ある人、後世を如何様に勤めなば良からんと問いしに、南無阿弥陀仏と念じたまえと教えける。
又ある人、生まれぬ先を知らず、死にてのちも知れまじきと云いし人有。我問うて云はく、恒の心は如何と問いしに、色々に望む事あれども叶わぬと云えり。予云はく、若し叶ひなば、如何許り嬉しかりなんと問いしに、左なんと云う。予教えて云はく、何も思はで居給えと云いしにつけて、何も思はぬ行をすとて、眼を見開き、強く勤めぬる由云いしが、まことに後には思はぬ人に成りし時、何か願い有りやと云えば、無しと答ふ。さては願いの満ちぬるはいと目出度しと云いければ、彼頷く。
ある真実なる問い事しける人あり。予教えて云はく、その問う主は誰ぞ。彼云く、知らず。予又問う、その知らぬ者は誰ぞ。彼云く、何もなし。又云う、色々に変ずるものは誰、彼云く、元何も無きものなり。予云く、外に佛なし。それすなはち佛なり。佛とは無きものの名なり。
我昔臨済の絵を持て来ぬれば、上に書、
「おのれめが 破戒の比丘と なる事は 佛祖を殺す 報いなりけり」と読みし也。
何とて世の人はかくまで迷いぬるぞや。わが手足を動かし、物を言わせ、わが身の主を見れば、さりとては何も無きものなり。
いと若き時、ある形清げなる稚児の辺りに物しける時、心の移る事を確かに覚えぬれば、迷いという事を良く知り侍りぬ。
いと清らかなる女の辺りに居て、何とも思わねば、悟りと云う事を良く知りぬ。ある人、本来に迷いも悟りも無きと云いしを、今良く思い当たりぬ。
心経に摩可般若と云いしは、身を無くして萬事に應ずると云う事を今良くしりぬ。
修行する人は第一身の業を去ると云う事、今良くしりぬ。
修行者は身を痛むると云う事、今良くしりぬ。
天下国家を治むる人に佛道おしえよと云う事、今良くしりぬ。
天下国家の主は主なりと云う事、今良くしりぬ。
時の至る時と至らざると云う事、今良くしりぬ。
報いのあると云う事、今良くしりぬ。
例えばわが子に教えて云はく、君によく仕えよ。人の悪を云う事なかれ。萬事の道を心得よ。というばかり也。愚かなる事なり。大道に至る人、人の悪をも善をも云う事なし。君に仕え、親に孝を積む也。萬事を聞きて、人は只つねの心を知らせたきもの也。何も無くなれば、何も云う事無きもの也。常に心賢げなる人は、胸につかえぬるほど人の善し悪しを知るにより、云わじと思えど、その心におさへるによりて、猶云いて、又言葉を巧みに添えけるにより、大悪人と人を云いなせり。かるがゆえに、世の人ついに交わるに正しからず。浅ましき也。
ある法師、即心即佛を問う。予云く、是非の外。
ある人、非心非佛を問う。予云く、是非の外。
是非の外を云う。予云く、是非の外、又問う。一棒を与う。彼心得す。
ある寺法師物語りするを聞くは、中々世の中を見下して、高き事及び難し。
ある寺法師物語りす、ひきき(低き)事云いにたらす。
兎角人のならぬ道なり。或いは高し。或いは低し。本来無一物を知らず。
ある人、男女の交わりを忌む。予云く、佛道にあらず。男女は交わる物也。
ある法師来たりて、大道人、男女の交わりに触らずと云う。予云、己が道にあらざる事、云うなかれ。
妙心寺の関山国師は一則にて悟道ありしに、今三百則こさする(越さする?)とは如何様なる事ぞと問いし人に、予云く、朝夕、飯(いい)を食してその味知る人稀なり。もし知る人あらば、喰らわざる人なり。
ある夕暮れに、いと寂しくてありしに、鐘の響きければ、ふとあわれに思ひて、
「慣れて聞く この夕暮れの 鐘の声も 思えば何時の 別れとかせん」
世の中の無常を思えば、この夕暮れ惜しむべきも、理(ことわり)にこそ。
高き人卑しき人集まりて佛を問いしに、手を打ちて、此の音を聞くは一つ也、なと各々高き卑しき身に変わりあると問えば、さては身を思えば分る、身を知らぬ時はへだて(距て 隔て)無しと云えり。予云く、そのへだてぬ所を知るものは誰ぞ。集まりし人の内に、只独り、今日も又暮に及ぶと云う。
若き法師に、善悪不同かと問いしに、口を動かんとする時、一棒を与えて、何の邪正かあると云えば、悟る。
ある経法師、悟りはへだて無し、せめて経を読み助からんとて、広げぬるを引き取りて、その経を以って、萬法へだて無き処を知れとて、打てとも知らす。
ある人、身の業とは如何様なるものぞと問いしに、予云く、その問う迷いをされ。
ある賓なる人、身の業とて苦しむ。予云く、その苦しみを去れ。
ある富貴なる人、過去の業を喜ぶ。予云く、その喜びを去れ。
萬法を捨て何事かある。今の世に捨て、捨て果てよ。捨てて後捨つるもの無くなりて、予に問え。
萬法を捨てよと云えば、無念無心にして、石かわらの如くに成ると思えり。
萬法の元を見よと云えば、又見るものになるなり。
「何も無き ものはこの身の 主なるを 何とて人は それと知らずや」
ある人さとらて(悟らず)山居せしに、詠みてやりける、
「思ふままに 捨て山路に 入りぬれど その身の主は 元の主なり」
ある人悟りて山深く入りぬるに、詠みてやりける、
「山風も 里の嵐も 身に沁みて 同じ色なる 秋の夕暮れ」
坐禅の大事を問いける人に、さする(させる)も悪しし、させぬも悪しし、悪しからぬものを常に養いたまへと云やりければ、詠みて起こせる、
「留まるも 行くも帰るも 恒なれば 恒の心 恒だにも無し」
予云、 如是如是。
ある人につけて云はく、本来、道と云事も無し。ものに任するばかり也。
「道という 言葉に染めて 迷いけり 本来は只 何も無きなり」
さてもさても世の衰えし事と云いし人に、何をかのたまう。日月星山河大地、昔に変わらぬものと思いしか、雪も昔は白からぬかと疑いぬる如く、佛の教え、孔子の教えの誓いぬることよ。その言いおかせられし事の明らかさよ。それを断わる人の汚けさよ。世に人を支えぬるも理なり。諸教に述べおかせられし事、四書にのたまいし事のそのままに読まば、如何程ありがたからんに、後の人のことわりにこれほど悪しからんとは、誰か知り侍らん、もしもし世人素直になりて聞く事あらば、天命の明らかなる事を知らんか。佛道のありがたき事を知らんか。
第一佛は無一物を教えて、ある時、南無阿弥陀仏と名をつけ、妙法と名をつけ、阿字本不生と名をつけ、禅と名をつけて、本来無一物を色々に述べ給いし也。
孔道は天命を性と云い、又大学は明徳を明らかにせよと云い、又知を究むる事は物に至ると教え給いしも、本来無一物の事なり。
直に云わば、人は只本来何の心もなければ、生死も無し。邪正是非をはなれて、しかもはなれず。わが身なければ、思い無し。思い無ければ、災いはなし。わが身無ければ、君に仕えて忠を尽くし、親に仕えて孝。身あれば念あり。念あれば願いあり。願いあれば苦あり。かくのごとく明らかに知れし道を、己が様々云い為して、佛道は佛道の内にて争い、儒は儒の内にて佛を叱り、己己をたてし悲しさよ。またかく云えば、是れを争うと云う人あり。何とも堪え難き人の心の恐ろしや。各様の事を世の末を云いしを知らざればことはり(理)也。
この一巻、我が弟子辺りに近くありしに、書きて与えて云わく、必ず後世を願う人は、色々に心に苦しみあり。直に佛を知る人は願い無し。これを良く知るべし。無我の我を以って人に教えれども、有我の我をもって聞く人は知らず。各様の人は、慈悲を与える事なかれ、
聞く人には、第一、見性をさせて、坐禅して勤めさせよ。勤めに従いて確かになる事疑い無し。
寛文六丙午神無月日
士道庵主 無難
孚仙におくる